うみつき




 その日、ミツキさんの胸に抱えられたそれは、青白くうすぼんやりと発光しているようで。まるで月がもう一つ生まれて、降りて来たみたいだった。半透明で、触ると頼りなく不安になる。「いつの間にか、こんなに大きくなってしまったわ。」一抱え程も、あっただろうか?それは大きなクラゲだった。
「クラゲって良いものよ。」ミツキさんは言う。「煩く鳴いたりしないから、ご近所に苦情を言われることも無いし。」
「でも何か、反応薄くて面白くないんじゃないですか?」僕は聞いた。
「あら、よく見ていると、結構表情もあるものだと言うわよ。」しれっと言う、ミツキさん。さすが長く飼育しているだけあって、表情も読めるのだろうか。「いいえ。私には駄目ね。さっぱり解らない。」ミツキさんは、ちょっと肩を竦めた。「でもね、それで良いのよ。」その夜は、月がやたら白く見えた。ミツキさんの表情も、白く穏やかだった。
 僕はミツキさんを乗せて、深夜のまばらな国道に、車を走らせていた。「あ、そこを右に。」ときどき発せられる。指示に従って、右にハンドルをきった。僕は何も知らない。
「これ、一体何処に向かってるんですか?」信号が赤に変わったので、後部座席に問い掛けてみた。車はどんどん、都市部を外れていくから。
「…うみ。」
 ぽつり、とミツキさんは言った。視線は、見るともなしに外を見ていた。クラゲを抱いた横顔が、バックミラーに浮かび上がって見えた。月みたいだ。「かえしてあげるの。この子はもう、抱えられないから。」
 車が走った。ミツキさんの言う通り。僕はもう、何処を走っているのかなんて分からなかった。見慣れた街は、きっと既に、遠く離れて。「そこを抜けたところで、停めて頂戴。」不意に、ミツキさんが言った。僕は慌てて、ブレーキの準備をする。広がっていた林が、途切れた。
「此処で、良いんですか?」そこは確かに、海を臨む断崖の上で。「えぇ、ありがとう。」愛おしむようにクラゲを抱えて、ミツキさんは車を降りた。
「何でまた、こんな深夜に海なんか…」ほんの少し、縁起でも無い予感がして、訝しく僕は聞いた。こんなときに限って、車のキィが上手く抜けない。ミツキさんは答えず、黙って崖の方へ進んで行った。「ミツキさん!」
 僕は、ミツキさんが飛び降りるのじゃないかと思った。そのくらい彼女は、ついと断崖の淵まで立って。






「バイバイ。」






 落ちていった。ぼんやりと青白く、月の光を受けて。
 月が出ていた。クラゲのように丸くて、不安な月が。ミツキさんのクラゲは、水面に映る月の影に重なるように、沈んでいった。かえっていった。ミツキさんは、名残惜しいような、寂しい笑みで、じっと見ていた。「また、新しいクラゲを買いに行かなくちゃ。」ぽつんと、ひとつ呟く。
 僕には、一人暮らしのミツキさんが、ひとりぼっちの部屋で、ぼんやりと光るクラゲに向かっているのが見えた気がした。ゆらゆらと、揺らめいて見えるのは、クラゲか月影か。
 クラゲは静かに、深い深いところへ沈んでいった。その身にたっぷりと吸い込んだ、ミツキさんの部屋の静けさと一緒に。何となく、それはクラゲに相応しいような気がした。「帰ろうか。」ミツキさんが、こちらを振り向いた。
 月が照らす。いつかこの人が、クラゲを必要としない日が来るのだろうか。それとも、もしかしたら。本当は皆、クラゲが必要なのかもしれない。
 僕は、そう思った。



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