中秋




 カレーの匂いというのは、どうしてこうもすぐにそれと分かるのだろう。シチューじゃ、こうはいかない。こんな遅い時間にカレーの鍋を温めているのは、いったいどんな人だろう。残業して帰ってきたご主人のために、夕ご飯を用意する奥様か。それとも、夜中に突然カレーが食べたくなったひとり暮らしの学生。単にカレー作りが趣味で、何日もかけて仕込みをしている人かも知れない。
 中秋の名月は昨日だった。この人も、昨日はススキやサトイモを飾ってお団子を食べていたんだろうか。雲間に見えるまん丸のお月様を眺めながら。
 昨日は用事があったので、私のお月見は今日になった。ぼんやりとしょうもないことなど考えつつ、アパートのベランダから月を見ている。ゆらゆら。昨日買って来た梅酒の入ったグラスを揺らしてみた。グラスの中で、月も揺れた。
 アパートにいて、ベランダに出ることはまず無い。あんまりきれいじゃないし、必要性もないし。けれど、今日は中秋の名月の翌日だから。昨日帰り道に見た満月が、あんまりきれいだったから。
 飲みなれない梅酒は割り方が下手くそで、お酒の強くない私には配合が濃すぎたみたいだった。
「…失敗したなぁ。ねえ、これ飲んでくれない?」
「僕が?」
彼は小さく、面白そうに笑った。
「嘘嘘。冗談よ。」
私も、前に向き直って笑った。「今日のあなたに、飲めるはず無いものねえ?」ふざけて、隣に立つ彼の方に寄りかかる真似をする。
「そんな風にしたら、転んじゃうよ。」
困ったように、彼は言う。「僕は支えてあげられないんだから。」斜めになった私の頭が、半分透明な彼の肩に重なった。
「ねぇ、新月になったら、もっとひっついていようねぇ。」
強すぎた梅酒で、酔っ払ってしまったのだろうか。何だか楽しくて、寂しくて、切ない。
「もう、溶けちゃって離れないくらいずぅーっと。」
目を瞑ると、頭の奥が引っ張られるみたいだった。彼は、困ったように私の頭を撫でたみたいだった。見えなかったけれど、そんな気がした。
「月が、出るよ。」
鱗雲にまだらに覆われた月。目を開けて彼の顔を見たら、目の縁の下に透けて見えて涙みたいだった。そう言ったら、彼はどんな顔をしたのだろう?
 雲が流れて、切れた。月が出た。眩しい満月だった。彼は、にっこりと微笑んだのだろう。寂しがり屋の子供をなだめるみたいに。でもそれは私に見えなかった。見える前に消えてしまった。私は、微笑もうとした瞬間の残像でその表情を擬似的に構成して、飲めなかった梅酒は捨ててしまった。外ではもう、秋の虫が鳴いていた。



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