手紙




 姫の姿を見なくなって久しい。

 いつもの2階にいた。定例会の日だったから。卒業論文の提出も大概終わって、だから、最近はとんと見かけなかったメンバーも 大方揃っていた。私も久々に顔を見せたひとりだけれども。
 相模は、最後に会った時と変わらぬ顔で ゲームの台に座っていた。姫はいない。ひと頃 あんなに足繁く通っていたあの子は、まるで最初からいなかったみたい。


『大事に出来なくてごめん』


 相模に訊きたかったけれど、それはもう まるで本当に何も無かったみたいに普通だったので、私は訊けなかった。木下が歩み寄って、何か話しかけて、ふたりで笑った。ずずず、音を立てて、溶け残った氷を啜る。
「ねぇ、マスター」
 姫のことを訊きたかった。カウンターの中、Tシャツ姿の通称『マスター』は 目をきょろっとさせて、こちらを見たけれど。「…何でも無い。」
 私は、訊けなかった。「誰?」って逆に訊かれそうで。それじゃあ、あの子は本当に 何処かへ行ってしまったみたい。
「私 今日は帰るわ。」
  「あれ、早いじゃないですか、何かあるんですか?」
「ぅうん、お疲れ様」
 お疲れ様、階段を降り始めると 方々から声がかかった。

 正直なところ、この季節 この時間に 一人で帰るのは ちょっと嫌だ。暗くて、寒くて。きぃぃ 下階の居酒屋を抜けて、重たい扉を押し開けた。息が白い。
 雨が降っていた。玄関灯の嘘くさい灯り越しに、それを見てちょっと憂鬱な気分になった。ひとりで歩きたくない。けれど。
 仕方無しに傘を開いて、足を踏み出した。ばらばらと雨の当たる音でも 聞こえるとちょっと賑やかな気分になる 冬の遅い夜。

「紫」

 後ろから 声がかかった。とても久しぶりに聞く声。そう、私は この声のために降りてきたのかもしれない。
「入らないの?」
「紫は、帰るの?」
「と、思ったんだけど」
「じゃあ私も帰ろうかな」
「皆まだいたよ」
 相模も。
「…今日は いいや。」


『でも私は、大事にしたかったんだよ』


 ばらばらと 雨が降る道を、並んで歩いた。ひとりだと歩きたくも無い道を ゆっくり歩いた。ふたりぶんの 白い息。嘘くさい街灯が照らす。車のライトが過ぎる。


『ごめんね、私は 君が思っているほど 求めることが出来なくて』


「姫、最近 来てないよね …まぁ、私もだけど」
「うん…」


『君の方から、手を伸ばして欲しかった』


 はぁぁ 黒い空に白い息を吐く。


『まだ間に合うと思ってた。君を大切にしたくなかった訳じゃないんだ』


「紫」
「ぅん?」


『春から、東京に行きます』


「私、春から東京に住むの。」
 姫は言った。
「就職?」
「そう」
 そこで私は初めて、姫の手に封筒が握られていることに気が付いた。
「ねぇ、それ…」
 相模。
「あぁ、これ?」
 何でもないみたいに、姫は封筒を指した。
「いいの、また今度にする。ていうか、渡さなくてもいいし。」
 私は、さっきの2階の様子を思い出した。この子のこと、まるで最初からいなかったみたいな。ばらばら、雨は降り続ける。
「ねぇ、紫」
 気が付けば 随分歩いていたみたいで、もうお互いの家がすぐそこだった。
「何?」
 お別れする目だった。
「ありがとう。」
 姫は言った。この子に会うのは、これが最後なのかもしれないな と思った。
「…こちらこそ」
 何て言ったらいいか分からなくて、とりあえず定型文を返した。その言葉は、私に向けられるべきものじゃあなかった気がしたから。
「じゃあね」
「ぅん、ばいばい」
 ばらばら、雨の音。嘘くさい街頭の明るさが不自然な夜の十字路。
 私たちは別れて帰った。



『好きになってくれてありがとう。
 ごめんなさい。』











 大切なものとか、価値観とか、話し合って、語り合って。
 そしたら、離れないでいられたのかな?

 宛先はきっと、手紙の存在すら知らない。




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