指輪




 指輪を貰った。幅の広いシルバーの。真ん中に一周、黒いライン。中指に嵌めようと思ったけれど入らなくて、薬指だと丁度良かった。
 迷路の中で、目の前にいる男の子は私に手を差し伸べた。「怖くないから。」深い、黒い瞳が言った。
 疑うこともせずに、私はその手を取った。それはとても自然なことで。その手は温かいようで、冷たいような。ふにゃりとした肌の感触がした。彼は微笑んだ。甘く優しい笑顔だった。
 私を、好いてくれるのだろうか?その笑顔を見ると何かとても、幸福な気分になった。
 前には、茶色い煉瓦の迷路が続いていた。手を繋いで、歩いた。真っ直ぐ。右に曲がり。左に曲がり。また右に曲がる。何処まで行っても、同じ景色に見えた。けれど出口がある。歩いて行けば。私は、それを知っている。
 気が付くと、薬指に嵌めた指輪が抜けそうになっていた。大変。これを失くしたら、彼に会えなくなる。そう思うよりも少し早く、指輪はころころと床の上を転がりだした。大変。大変。追いかけなくちゃ。私は、指輪を追って駆け出す。
 指輪はころころと転がり、なかなか追いつくことが出来なかった。「待って、止まって」懸命に願うけれど、訴えかけるけれど、それは聞く耳を持たない。
 ころころ。ころころ。何か、人が沢山集まっているところに転げて行った。大変。迷子になってしまう。大切なものなのに。あの人に貰ったものなのに。
 私は、誰よりも小さく屈みこんで指輪を探した。チェックのズボンを履いた足の間を。蹴り上げた赤いハイヒールの隙間を。はしゃいで歩く、小さなズックのあとを。
 指輪。指輪。あの人に貰ったシルバーの指輪は、何処を転がっているのだろう。
 ふっ、と顔を上げた。燭台の乗った張り出しがあった。きらりと、光るものが。指輪だ。どうやってあんなところに。手を伸ばした。途端、誰か他の小さな手が、それを掴んだ。駄目。「それは私のものなの!」
 小さな手は、指輪を返してくれそうになくて。大切なものなのに。あの人に貰ったものなのに。指輪に重なる面影が、とてもとても愛しくて、私は泣きそうになった。返して。指輪を返して。
「坊や、人の物を取ってはいけないよ」
 その声が、どれだけ救いに満ちて聞こえたことだろう。見上げると、私に指輪をくれたその子が立っていた。私は、嬉しくなった。「大丈夫だよ。失くしたら、またあげるから。」にっこりと微笑んで、彼は優しく告げた。急かされていた心を、赦すみたいに。
 彼は、私を好いてくれる。詰め寄ってくるものが、無くなっていく気がした。その余韻が未だ広がりきらないうちに、世界は途切れた。

 窓から差し込む光が、明るかった。枕元の時計を見ると、8時。もうこんな時間か。起きなくては。朝だ。
 戸外で、車の走っていく音が聞こえた。何か幸せな夢を見ていた気がする。その尻尾を離さないように、いつまでも握り締めていたかったのに。朝の光にいつか散り散りになってしまった。愛しい人の幻。
 そういえば私は、夢の中で誰かをとてもとても好きだった気がした。
 カーテンを開けると、隣家の屋根に雀がとまっていて。灰色の空気に浮かぶ、冷たい朝の景色だった。




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