組み紐




「あれ、またあそこにいる」
 彼女を見つけたのは、3日前だった。研究室の窓から見える、生協前の道端。いつからいたのかは分からないけれど、気が付くとずっとそこにいた。
「誰が?」
「知らない。ずっといるんだ。」
 そして、往来の人を眺めている。ひとりひとり、確かめるように。
「待ち合わせでもしてるんじゃないの。」カップにお湯を注ぎながら、室長が言った。
「でも、昨日も一昨日もいたんですよ。昼からずっと。帰るときもいたし。」
「よっぽど暇人なんじゃない?
あー、私もヒマが欲しいわ。その時間くれ!私にくれ!!」キタムラが、頭を掻きながらわめいた。
「タカトオも、そんなの見てる場合じゃないんじゃないの?ゼミ論、終わらないんでしょ?」ぐさり。しれっと言い放つ室長の言葉が、何気に痛い。
「終わらないから見てるんですよー。
進まないし。何やって良いか分からないし。」
「この期に及んで何を言うか。」
「いっそ書き始めちゃった方が良いかもしれないよ。そしたら、あれが足りないって分かるし。」
「うーん…でも、何から書いたら良いかとか、わかんなくてさぁ。」
 僕も頭を掻いた。
 本当に、何をやったら良いか分からない。現在悪戦苦闘中の文献は、ただでさえ読みにくくて。その上、テーマと直接関係があるとは思えない。尚更読みにくい。たちが悪い。
「そもそもタカトオは、どうしてわざわざここに来てやってるわけ?」
「えー、だって、家でひとりじゃ寂しいじゃないですか。」
「あ、そう。ここおやつあるもんね。」
「煎餅貰いまーす」
 3階から見下ろす窓の外には、まだあの子がいた。疲れたらしくしゃがみこんで、間遠になった人通りを、やっぱり丁寧に眺めていた。
 変化があったのは、そんな会話をしてからそう遠くない日だ。珍しく研究室に、アサヅマがやって来た。
「お疲れー、珍しいじゃん。どうした?」
「いやちょっと、パソコン使いに来た。良い?」「いくらでも。」
 電源を入れながら、がたがたと椅子に座る。「あれ?ストラップ変えた?」
 アサヅマが机の上に置いた携帯電話には、前に見たときとは違うストラップが付いていた。
「あー、あれ、落としちゃってさあ。まぁ、かなり古かったしな。」
 ががーっっ、ぴーっ、がー
 研究室の年代もののプリンターが、盛大な音を立ててアサヅマの書類を吐き出した。「何かこれも、今にも壊れそうな音するよな。」
 お疲れ、とお決まりの挨拶をして、奴は去って行った。
 確か前に付いていたのは、何か難しい形に紐を結んだ飾りだったっけ。電話会社のマスコットとは、随分イメージチェンジしたものだなぁ。ぼんやりと、アサヅマの新しいストラップの事を考えた。
 がちゃり。
「あらあら、相変わらず進んでなさそうな顔してるねぇ。」扉が開いて、マイカップを手にした室長が現れた。
「開口一番それっすか…。どうせ進んでないですよ」
「まあまあ、そんなに腐るもんじゃないよ。私なんてこれから授業だよ?」じょぼぼぼぼぼ。ポットから湯を注ぎ、かたかたとかき混ぜながら窓際に進む。
「あ、今日はあんたのあの子いないんだね。」
 え?
 びっくりして、顔を上げた。「さっき見たとき、いましたよ?」
「そう?今いないよ。さすがにいい加減どっか行ったんだね。」
 がたがた。僕も立ち上がって窓の外を見た。「本当だ。」
 確かにそこには誰もいなくて。彼女のいた場所が、ぽっかり空いてるみたいだった。何だか、逆に不自然だった。
 次の日も、その次の日も彼女はそこに立たなかった。何となく気が抜けた気分になって、ある日の帰り道、僕がそこに立ってみた。
 彼女はここで、何がしたかったんだろう?
 もう時間が遅くて、目の前を通る人はいなかった。目のやり場を失って、僕は何となく足下を見た。
「あ、何か落ちてる…」
 拾い上げて、辛うじて残っている夕日にかざした。複雑に絡んだ紐の隙間から、ささやかに光が漏れた。

 くたびれたストラップが、そこには落ちていた。



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