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イチゴジャム 桜の花が咲き始めたのを知っている。だから私は、無性にイチゴジャムが作りたくなって、いい具合に安売りしていたイチゴを買ってきたのだ。 イチゴは収穫されてからは決して追熟しないそうなので、できるだけ赤く赤く色づいたものを選ぶ。段々になった陳列台に、お雛様のように積まれたイチゴのパックを一つ一つ待ちあげては、裏返して検品する。さぞかし嫌な客だろう。でも、陳列台の上の秩序は乱さないようにしている。検品が終わったものは速やかに、もとあったよりももっと整然と並べてあげる。もっとも、周りにお客さんがたくさんいたら、そういうわけにもいかないのだけれど。 イチゴのパックは、絶対に量に差があると思う。だって、私が品定めしている間にも、ラベルの隙間から小さなイチゴが、今にもこぼれそうじゃないか。 アパートまでは、歩いて15分くらい。私は自転車を持っていない。だから、重いものを買った日や、疲れていたり落ち込んだ日は、家までものすごく遠いと思う。今日は、イチゴを買っただけだけど。 見上げれば青い空。春、とか、そんな柔らかなふんわりした言葉じゃ表せない、もっと眩しくてきっぱりした光が差す。見慣れた景色がいきなり綺麗に見えるのに、私は愕然とした。ただの電柱。何の変哲も無い電線。誰も摘み取ることも無い道端の草の一本が、こんなにはっきり見える。ああ、この育ちすぎた菜の花だって、こんなに眩しくて綺麗だ。誰かに伝えたくて、君に伝えたくて、携帯電話を取り出してカメラを向ける。真正面からお日様があたるから、うまく像を結ばない。手で日陰を作ったり、体ごと割り込ませたりして、一生懸命シャッターを切る。本当はミツバチも一緒に入って欲しかったのに、私が悪戦苦闘している間に飛んでいってしまった。 君は携帯メールが好きじゃないと言っていたから、多分返信は来ないかもしれない。こんなことでメールしたら迷惑だろうか?君も私のように、それに見合うだけの感動を持ってくれるとは限らないし。ほんの少しの後悔とともに、私は菜の花を送り出す。君に、私の事を思い出して欲しくて。期待はしないことにしよう。そう、私はこれから、イチゴジャムを作るのだし。そうだ。早く帰ろう。折角のイチゴが、傷んでしまう。 ジャムを作るにはまず、果実に砂糖をかけて、十分に水分を引き出してやる必要がある。そうしないと焦げ付いてしまって、くつくつ煮ることができないらしい。この、水分を引き出すというのが以外に曲者だ。偉く時間がかかる。大体半日弱。私の場合は分量が少ないから、もっと早く煮始めることができると思うけれど。それにしても厄介だ。放置しておけば良いのだから、その間は別のことをしていれば良いのだけど。この時間にイチゴのヘタを取る作業ができたら良いのになんて、時間軸を無視したことをつい考えてしまう。砂糖の量は、イチゴの半分ぐらいで良いだろうか?少なすぎるかな?日持ちを考えるならば果実と同じくらい必要。でも、それだと気兼ねなく食べられないから、やっぱり少なめで良い。 ヘタを取って鍋に入れたイチゴに、満遍なく振りかけていく。旬の果物というのは、本当に香り高い。冬なら、林檎を買ってきて部屋の中に置いておくと、部屋中林檎の香りになるように、きっと今外出したなら、帰ってきたときにはいっぱいのイチゴの香りに包まれることができるだろうな。 水分が出てきたら、いよいよ火にかける。火加減は、煮立ってくるまでは強めにしておいても良いだろうか?昔母さんが作っていたときは、どうしていたっけ?もっと真剣に見ていれば良かった。 こういうとき、私は少しばかりせっかちかもしれないと思う。何もせずにじっと見つめていることが難しいから、早く変化があって欲しいのだ。 くつくつ。ぷくぷく。かき混ぜたいけれど、あんまり混ぜると、できあがったときにジャムが濁ってしまうらしい。でも、まったくかき混ぜないのも、焦げ付いてしまうんじゃないか?とりあえず、ここの、鍋の真ん中に溶け残っている砂糖を沈めておこう。木ベラで、鍋底を撫ぜるように。焦げ付いて欲しくないから、火加減はうんと弱く。少しでも早く水分が飛ぶように、換気扇もつけようか。ああ、でも、この香りが逃げていってしまうのは勿体無い。時間がかかっても良いから、もう少し独り占めしていようかな。きっと、もっと時間が経てば、もっと香りが濃くなる。はじける泡の一つ一つが、もっと強い香りを抱えるようになる。 くつくつ。溶けた砂糖の海が、だんだん だんだん赤くなって、イチゴとの境界が曖昧になっていく。台所が湿っぽくなってきたから、いい加減換気扇をつけよう。レモン汁も入れなくては。少しのレモンを入れると、甘さが引き締まって美味しくなる。 このジャムは、どのくらいの量になるだろう?2瓶…3瓶…?あんまり食パンを買ってこないくせに、どうするんだろう私は。朝のヨーグルトに混ぜようか。紅茶と一緒にロシアンティーというのも格好良いけれど、紅茶のパックはどこにやったっけ?他に何か、使えないかな。パンに塗るだけじゃ、皆やっていることだからつまらない。あのカラオケ屋みたいに、イチゴミルクとかしてみる? それとも、自慢半分で誰かにあげようか。 誰に? ぴりぴり。 隣の部屋で、電子音が鳴った。携帯電話の着信音だ。コール一回はメールの音だ。ヘラを放り出して、私は携帯のもとへ飛んでいく。ああ、こうして目を放した隙にジャムは焦げ付かないでいてくれるかしら?急いで手に取ったけれど、液晶画面にスクロールする差出人は既に消えていた。でも、きっと君からだ。他にいないもの。本文が出てくるまでの間が、もどかしい。期待と、不安。だって、ねえ、君は最近そっけなくて、私はひどく不安になるんだよ。きっと君は気付いたんだ。私が、とてもとても君を好きなことに。そして、煩わしくなった? ねえ、私のことが嫌いなの? 私は君が好きだったよ。隣にいるだけで、何があっても許されるような気がした。私のことを考えて欲しかったの。ごめんね。ごめんね。ごめんなさい。 一瞬の間をおいて現れた画面には、相変わらず何も伝えない、鉄面皮みたいな君の言葉が並んでいた。 そろそろこの気持ちにもきちんとお別れを言わなくちゃ。そして、しっかりと蓋をしてお墓に埋めてあげよう。きっとすぐに忘れられるはず。 できあがったイチゴジャムは、君のくれたあの溢れるような幸福感に、とてもよく似た香りだった。 |