煩すぎるセミの声



 単線のホームに電車が入って来て、3両目の車両が僕の前に停まった。
 この電車に乗るのは僕じゃない。次が終点の電車に、乗り込む人はいない。ただ、降車する人たちだけが、終わりの方の砂時計の砂みたいにぱらぱらと吐き出されている。
 僕は彼が降りてくるのを待っている。さっき一つ前の車両にいるのが見えたけれど、まだ出てこない。もう、大抵の人は降り尽してしまったというのに。

しゅーっ、ぷし

 とうとう、ドアが閉まった。
 おかしいな。何故出てこないんだろう。まさか、降り損ねたとか…
「ぅわっっ!!」
「うわっっ!?」
「よー、久しぶりじゃん。元気だった?」
彼が、いつの間にか後ろに立っていた。
「お前、どっから出て来るんだよ!?今絶対前に乗ってただろ」
「えー?ちょっとダッシュして、後ろに回ってみちゃったりとかしてみたり?」
 …呆れて声も出ない。これが大学生にもなった男子のやることだろうか。
 夏休みになって、実家に帰るよりも先に僕の通う大学の方へ遊びに来た親友は、相変わらずへらへら笑っていて、相変わらず、隣町に買い物にでも出てきたような軽装だった。
「いやー、長旅は疲れたよー」
「あーはいはい。お疲れ様」
 何処に疲れている要素があると言うんだ。
「冷たーい。お前さあ、もうちょっと労ってくれたりとか、歓迎の意思を示してくれても良くない?ねえ」
 本気なのか冗談なのか、すねたように口を尖らせる。
「欧米流にハグしてほしい?」
「男にやられても嬉しくない。」
「だろ。」
 単純。
 じりじりと照りつける日差しの下に出て、僕たちは歩き出した。行き先は、とりあえず僕の部屋だ。
 大学生の夏休みは遅くて、まだ夏休みに入る前からセミの声が煩いくらいで。それを聞くと、レポートに苦しみながらも夏休みの中にいるような錯覚を引き起こすので危ない。今日もセミは元気だ。
「なぁ、青木さんて、もう実家に帰ってるの?」
「は?」
 あんまり唐突で、一瞬何を言われたのか分からなかった。
「何だよいきなり」
「だって、お腹空いたし」
「お前なぁ、彼女にご飯作らせようっていうの?」
 まだ何回も会ったこともないくせに。
「だって彼女、料理上手なんだろー?
良いじゃん、お友達だし。お前ばっかり作ってもらってずるいじゃんか!
男二人でこの暑い中に面つき合わせる俺の身にもなってみろ!」
「あーはいはいはいはい。」
 調子の良いことで。ため息が出そうな理屈だ。願わくば半分冗談であって欲しいものだが、案外大真面目に言っていたりするのだから悲しくなる。
「知らないよ。彼女の予定なんて」
 何気なくさりげなく、僕は言ったけれど、出来れば、あんまり彼女のことは思い出したくなかった。
 彼女とは、もう随分交信が無い。
「何?彼女、どうかしたの?」
 彼が、覗き込むように僕に聞いた。何も知らない、純粋に不思議そうな顔だ。
 そういえば、彼にも何も言っていなかったのだったっけ。僕は、しばらく黙っていた。セミが鳴いていた。空が青かった。蒸し暑かった。
 自分が、こんなにも彼女のことを棚上げにしていたことに、驚いていた。


「青木さんね、俺が好きだったんだって。」

 ジ―――――――
 セミが鳴いた。

 そのとき満開の桜の下で、僕は、どうしたら良いのか分からなかった。
 意外なのかやっぱりなのか、嬉しいのか鬱陶しいのか。自分がどんな気持ちなのか、彼女がどんな気持ちなのか分からなかった。
 とりあえず僕は言った。「ごめん」て言った。彼女は笑っていた。どうしたら良いのか、僕には分からなかった。
 それきりだった。
 桜の木に、セミが沢山とまって鳴いている。日差しが、目に沁みた。

 結局、僕は逃げ出したのだ。

 誰かを、僕の領域に入れるのが怖かった。誰かの領域に入り込むのが、怖かった。
 それは例えば、自分の知らない所に存在する知らない自分自身が、ふと顔を出して侵略してきたような。何もかも知り尽くしていると思っていた絶対安全な世界に、突然現れた異物だったから。
 その存在が、僕は怖いと思った。今ここにいる自分とは違うのではないかと思って、怖いと思ったんだ。

「それで、連絡とってないの。」
「うん」
「それで、良いんだ。」
「……」
 僕は何も言えなかった。
 暑さで、何も考えられないことにしてしまいたかった。セミの声が煩すぎて、何も考えられないことにしてしまいたかった。
 だって、どんな顔をして彼女に会えば良いのか分からなかった。何も知らなかったときのようには、できないと思ったから。彼女に会うためには、何かを判断しなくてはならないと思ったから。

「俺はさあ」
ぽつんと、彼が口を開いた。
「俺は、お前は…
ジ――――――――――
み―んみんみんみんみ―――ん
ジャワジャワジャワジャワジャワ

 突然、一斉にセミが鳴きだした。
 彼の言葉の続きは、聞こえなかった。独り言みたいなその言葉を、彼も、繰り返さなかった。


 そして僕は、その言葉から目をそらし続けていた。



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